「自分の人生」の歩き方

私達は

誰も皆、もれなく赤ん坊で
裸ん坊で生まれくる。

誰も皆、もれなく死ぬ。

そして誰もが皆、
うんこもオシッコもおならもする。

だけど、
好きな食べ物や好きなタイプの人や味の好み、趣味や考え方、価値観は皆、人それぞれに違っていたりする。

例えば、同じラーメンを「美味い」という人もいれば、「不味い」という人もいる。

また例えば、ある人にとっては美味しくて身体にも良い食材が、ある人にとってはアレルギー源で摂取すると命に関わる危険な毒となる食材だったりする。

〜*〜*〜*〜

ここで
「自分の人生」の歩き方、というものについて考えてみたい。

私はいつも夢見ている。
自分自身を含め、誰もが、自己嫌悪や存在意義の喪失感に悩むことなく人間関係にもビクビクせず、
安心してそれぞれの「自分の人生」を
のびのびと、そして胸を張って堂々と生きられる社会の実現。そんな時代の到来を。

人と人との間に上下意識のない「人と人とが常に対等である社会」が当たり前のものとして存在する新しい時代が到来するため、自分の人生や活動もその力のひとつとなれたら、そればかりを日々、切望している。

なぜなら、これまで自分が生きてきた中で
上下社会、縦社会に対し、どうしようもなく、納得のできない違和感がずっとあり続けてきたから。

私が常に本質として感じること、それは
「生まれて死ぬのは皆同じ」
「考え方や感じ方は、十人十色で千差万別」
だからこそ
「人に、生き物に、何の上下も勝ち負けもない」という事である。

〜*〜*〜*〜

さて、
多数派が上で少数派は下なのか?

とある人が言っていた。
一見「多数派」「少数派」に分かれているように見えて
全てのジャンルでパターンをかけあわせ
個人個人にそれをあてはめて行くと
あらゆる人間全てが「少数派」になりうる、と。

つまるところ、まず、全てにおいての「多数派」「少数派」などは存在すらしていないのだ。

では、
年長者が上で若い人や子供が下なのか?

年長者は年長者であるというだけで賢いという例を、まず自分達の身の回りに見るだろうか。もう、それだけでも答えは充分だろうと思う。
全ての年長者に経験値すら積み上がっているとは言えず、先入観や固定観念がこびりついて、思考停止している年長者さえ少なくない。
年齢で上下をつける事には、全く何の根拠もない。

では、
地位や役職は人や生き物としての上下なのか?

スポーツチームを考えれば良い。
厳格な序列がついた縦社会のチームで、
在籍する全ての選手が、それぞれの持つパフォーマンスを、最大限に発揮出来ると思えるか。
地位や役職は、各ポジションに存在する責任の重さであり役割であり、
各ポジションには、そこに適した能力のある人間が着く必要があるだけであり、どのポジションが偉いわけでもなく、全員が重要なポジションなのであり、どのポジションが上でも下でもない。

では、
富める者が上で貧しい者は下なのだろうか?

富める者が持っているのは「金」という使えるリソースであり、それは人格や知性などとイコールな訳では無い。
その使われ方すらも、人を押しのけて自分さえ良ければ良いという偏った使い方もあれば、社会に貢献したり助け合いのために惜しまない使われ方もある。

貧しい者にも、貧しいからとやはり自分さえ良ければ良いという考えで、人から金品を奪ったり騙そうという浅ましい考え方の者もいれば、
貧しいにもかかわらず、浅ましくならず同じ貧しい者同士助け合ったりする人達もいる。
貧しいからこそ、お互いに助け合おうというコミュニティすら形成したりもする。

また現代では驚く事に、
「金」というリソースを持つ「富める者」の中にも
浅ましく、そのリソースを惜しみ
奪ったり騙したりする輩がいたりもするという事実がある。そこに「助け合い精神」の欠片もなく。

〜*〜*〜*〜

全ての人がお互いに「みな上下はなく対等である」という認識が持てる世の中になれば、
人種、国籍、年齢、性別、職業、地位、役職、貧富、置かれた立場や障害の有無に関わりなく、今よりもずっと多くの人が、心から安心して、のびのびと、生き生きと生きていけるようになるはずだ。

ただ、それを実現する「世の中」は、私やあなたを除くどこかではなく、
まさに「私」であり「あなた」であり、
天皇も総理大臣も含めた「全ての人々」であり、
イコール全ての人の主観、全ての人が感じる「自分」が、その最低単位だ。

生まれてから死ぬまでの、たった一度の短い機会​─​─それが「人生」。

「自分の人生」を他人は歩めない。
「自分の人生」を歩むのは自分1人しかいない。
そしてその全ての「自分」が
常にその「環境」であるところの、今生きている社会を、時代を作っている。

そこで改めて考えてほしい。

あなたは自分自身に対して、自分の納得の行かない、自分とは異なる他人の価値観を、無理やり強制され、押し付けられて、これから生きていきたい?
あなたは自分の人生を、人の言いなりで生きていきたい?
あなたの感じる「幸せ」って何だろう?どんな状況が幸せ?

まずは、自分自身の独自の「幸福論」というものを持ってみる。
そして人には人の「幸福論」がある。

そこには、上下はないはずだ。

あなたはあなたの幸せを目指し、それを選びとる権利があり、

他人には他人の幸せがあり、それを目指し選びとる権利がある。

「自分の人生の歩き方」は、1人にひとつ存在している。
自分の幸福論に基づき、自分の幸せのイメージに向かって、あきらめずに生きていくこと、それが「自分の人生の歩き方」なのだと思う。

歩き続けるのだ。とにかく、幸せに向かって。

神様と呼ばれるものなのか、どこにいるのかは分からないけれど、大いなるものが、その生と死を別ちこの世から連れ去って行く、その時が来るまで。

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