リーダーシップについて

先日、最近お知り合いになれたセラピストさんのモニターとして、彼女のカウンセリングの一通りさわりの部分を体験する機会がありました。

カウンセリングというものは、基本的に、カウンセリングを受ける当人の中にある答えをセラピストさんが引き出してくださるので、今回私にとっても、日常あまり考えることのないようなテーマを、改めて考えさせられる良い機会となりました。

カウンセリング中に、自身のリーダーシップについての考え方を掘り下げる場面があり、過去の経験で、自分のリーダーシップに対する経験やその時の気持ちなどを振り返る場面があったのですが、私は、中学校で学級委員長をやったり、劇団の養成所で、自治会長(まぁ、クラス委員みたいなもんです)をやってきたことがあり、その場面場面を振り返り、私はうまくリーダーシップを発揮できることがなかったという反省が出てきました。
その理由を掘り下げて行く時に、「人をまとめることが出来ない」という悩みが当時あったのを思い出し、さらにその原因として、「決断を人に委ねてしまう」という曖昧さを、実際に周りに批判されたこともあったし、つまり、「何が言いたいわけ?」「何がして欲しいわけ?」「リーダーだったら決めてよ」「リーダーだったら引っ張ってよ」という突き上げにあって、リーダーを頼りなく思ったメンバーが皆、結局バラバラになってしまい、何もひとつになって何かをするというところに至らなかった、という経験です。

モニターとしてのプレカウンセリングなので、それ以上の深堀はせず、リーダーシップのテーマについてもそのあたりで結論を出した感があったのですが、帰って、家の事やらなんやらを済ませた後で、寝る前になっていきなりふと、色々自分の中で込み上げてきた気づきがありました。

私がリーダーとして失敗した苦い経験は、学級委員長や自治会長でしたが、よくよく考えたら、演劇部長や、演劇部OBの中の同士を集めて、1年間だけの短期間、学生劇団を一時的に立ち上げたことがありました。つまり学生劇団の団長をやっていたこともあったのですが、その時は、自分がまとめようとしなくても、仲間がみんな自然に参加し、自ら積極的に行動を起こし、時には助言をしてくれたりサポートをしてくれたりしながら、みんなで寄り添い合うように、私のことも支えてくれながら、ついてきてくれました。

その時のことを思い出し、私が苦労して何も出来ずに苦い思いをした、失敗したリーダー経験は、周りの人との信頼関係がなく、どうやってそれを構築することが出来るのか、その手段が全くわからなかった時でした。
そしてその信頼関係は、元々皆無なところから、つまり、そっぽを向いている人たちを振り向かせてから構築しなければならない前提からのスタートのものであり、つまり、私は支持されてリーダーになったわけでも、私がこの指とまれと言って賛同した訳でもない、誰も乗り気でない集団の中で、構築しなければならないというものだったことに気が付きました。

カウンセリングで自己分析を進めて行くうちに、どんどん自覚した自分の本来の性質として、「合わないものは合わないし、合わせることもできない」という極端な部分があり、過去も何度もその部分で壁にぶち当たるものの、結局どうあがいても、クリア出来ずにいたものでした。
もちろん、我慢も妥協も努力も自分なりにはしていたつもりがあったのですが、自分の心の奥底にある、納得いかないものに対する妥協や我慢に対する「嫌だ」という拒否感があまりにも強過ぎて、結局合わない人達にはなじめず、もちろんまとめることなんでできず、そういう人たちとは、リーダーとしてではなく、ただ対等な友達としてしか、コミュニケーションが出来なかったので、どうやっても、その場合のリーダーに適任でなかった、つまり、その時点のリーダーには不向きだったのだと思います。

だから私はリーダーになれない人間なのか· · ·?と思って来た節も、確かにあります。
自信や度胸がなく、力強くみんなを引っ張っていけない、強い責任感や意志を持って明確な指示を出せない· · ·そんなリーダーだったことは確かにありました。その時は、自分でもみじめでつらい思いをしたものでした。

ただ、演劇部長だったとき、学生劇団の団長だったとき、あの時は紛れもなく、なんの違和感もなくリーダーでいられました。
自分がみんなを引っ張った部分ももちろんありました。焚き付けたり励ましたり、フォローしたり、そういったことも、その時はできていました。

では、何が違ったのか· · ·?

そこで気づいたその「違い」は何だったのかというと、
「活動内容」と「メンバー」でした。
明らかに、学級委員長や自治会長のときと、
「活動内容」「メンバー」がまるきり違ったのです。
ただ内容が違ったという単純な意味ではありません。
具体的に言うと、
うまく行った方の「活動内容」は、
まず自分自身が、これをどうしても成し遂げたい、達成したいという自発的な思い、そして明確な目標と、やりがいがまず先にあって、その前提で、そもそも、その目的を実現するために始めたものという、そういう性質の活動だったからです。

誰もやっていないこと、既存にはないものを創り出し、それを形にする作業、それは活動の全てが新鮮であり、「創る喜び」というものを、どんな作業の中にも恒常的に感じられる。
どんなハードルがあってもそれこそがときめきであり、恐れることも、飽きることもなく、常に前向きな勇気が湧き続け、根拠の無い自信と度胸を持って挑むことが出来る。

そして、「メンバー」。
そういう、何も無いところから創作するという活動に対して、賛同して集まるメンバーは皆、他力本願ではない。皆、自分たちが同じことをやりたい、参加したい、同じ志を持つ人達であり、そうすると行動は当然皆自発的になり、指示を待ったりなどもしなければ、言われたことを言われた通りにやります、などということはない。
常に自然にディスカッションが起こり、皆が自分の中に抱く理想を実現しようとして、めいめいの思いをぶつけ合い、切磋琢磨して、知恵を絞り合って汗をかきあって、一緒に泣いたり笑ったり、苦楽を共にして、同じ方向を向いて活動をするから、そもそものモチベーションは皆高いし、皆、何だかんだ言っても活動により常に新鮮な刺激があって、とても楽しい。やりがいもある。

こんなに「活動内容」と「メンバー」という前提の違うそれぞれの分野において、リーダーシップの発揮のされ方などというものは、違って当たり前なのではないだろうかと、深夜に洗濯物を干している最中にハッ!と思った私は、思わず筆を取っ· · ·ではなく、スマホを手にしてしゃがみ込み、一心不乱にこの文章を打ち込んでいるのです(-_-;

だから、よく言う「適材適所」という、やはりそれがなければ、リーダーだろうとなんであろうと、機能するしないは、変わっていくものだろうと、私はそういう結論に至りました。

「適材適所」のポジションにはまれば、どんな役割であろうと機能するし、それに合致していなければそれは機能しない· · ·当然と言えば当然のことですよね。
自転車のタイヤを自動車のタイヤに使うことは出来ないし、自動車のエンジンがジェット機のエンジンに使えるということもない· · ·(技術的には不可能ではないかもしれませんよ?とかいう話はここではさておいて)、そう考えると、人だって、機能する環境、状況における適したポジション、というのが、やはりあるのだろうと思います。

中には汎用性があるだとか、色々なものに対応していますとかそういう類のものもあるかもしれませんが、大抵のものには、(物であっても)自分の居場所というべき、「機能する場所」というものが、存在しているものだと思うのです。

だから、結論を言うと、「リーダーに向いている人」だとか「リーダーに向いてない人」だとか、全体論でそんなことを判断することは出来ないし、すべきでないと、私は強く感じました。

物事はそんなに単純ではない、そんな平面的に捉えることはときに不利益であり、個の価値を否定することに繋がり、また時として、非常に危険な考え方だと· · ·あなたはそう思いませんか?

· · ·なんて、もう翌朝の4:10になろうとするのに、そんなことを熱くなって語ろうとする、ADHDの私なのでした(^_^;

· · ·さぁ、やりかけの洗濯物干しを、夜が明けきる前に干してしまわなきゃ!!

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はじめまして!ADHDの、ADHDによる、ADHDのコミュニティ・サイト「ねこままカフェ」運営およびイベント主催しております、「NPOチームねこまま」代表ADHDのねこままです! コンセプトは「JOIN」=“参加”です! 誰が上でも下でもありません。 みんなが主役、主人公です。 自分のやりたいこと、得意なことに夢中になって取り組む、その事こそが自分達を活かす、ここはそんな場所です。 それぞれの知恵や特性、能力が活きる、活かせる、そんな活動を、みんなで模索しながら、アイデアを出し合いながら、みんなが成長していける、そんな場所になることを目指しています。 当事者会を中心に、当事者一人ひとりの自己実現を目指し、当事者同士の情報交換や啓発し合える場を作っていきます♪