「喧嘩→仲直り」のプロセスから得るもの

好んで喧嘩はしないし、出来れば喧嘩はしたくない。
揉めず穏便に、円滑にコミュニケーションがはかれれば、それに越したことはない。

ただ、生まれも育ちも価値観も考え方も違う他人同士が
何か同じテーマについて意見を交わし合う時、
それぞれの意見が食い違ったり、表現に誤解があったりして
衝突してしまう、という事は、ままある。


そこでふと思うのは、
「何度も何度も喧嘩をするのに、毎回必ず仲直りし、長い付き合いになる関係」
というものもあれば、
「ほとんど喧嘩らしい喧嘩一つしていないのに、突然、片側が機嫌を損ね爆発し
唐突に関係を絶たれ、短い付き合いにしかならない関係」
…というものもある、という事だ。

前者について、
何度も喧嘩しているという事は、何度も衝突しているはずなのに、
なぜ関係が途切れずに続いているのか?

また後者は、
それまで円滑に見えたコミュニケーションが、なぜ唐突に破綻したのか?

この「なぜ?」の部分にフォーカスして考えてみた時、
「喧嘩をしてからの仲直り」というプロセスから得られる、大きな価値に気がついた。

意見の食い違いや、思いの行き違いで衝突し喧嘩になる。
一見「揉めている」「感情と感情がぶつかり合っている」という事であまりよろしくない印象がする。

まぁ、それはもちろん感情的にならないに越したことはないが、人という生き物には感情がある為、どうしても「それは違う」「どうしてそうなるわけ?」などと感じると、理性に先んじて頭に血が上ってしまったりするものである。

ただ、激しく言い合いをしている時は、お互いが対等に「素の自分」として本音をぶつけ合い、その時は双方とも感情的になっていて冷静に相手の話を把握できていないものの、時間が経ってみれば相手の言葉にも一理あったり、何かしら納得の行く言い分の片鱗が見えたり、自分が感情に任せて言い過ぎてしまった反省などが湧いてくる。

その際、衝突の不快さを払うため、自然に「相手を思いやる気持ち」というものが感情の波が引くのと交差するように湧きあがり、自分を振り返り見つめ直し分析し、どうすれば良かったのかを考える。

また、相手は本当は何が言いたかったんだろう、相手の本心をもっと知りたいなどと思ったり、相手の言い分も聞いて理解しようという引き出しが出来る。

双方、冷静になり、相手をほんの少しでも思いやる気持ちが湧いてくると、自然と仲直りする。

「①喧嘩以前 ⇒ ②喧嘩の最中 ⇒ ③喧嘩の直後 ⇒ ④冷静になった時 ⇒ ⑤仲直りする時 ⇒ ⑥それ以降」

①⇒⑥のプロセスのそれぞれを、いわゆるひとつの段階、ステップとして
客観的に観察してみると、感情の波は安定していないにせよ、
「相手を知る」「自分を知る」「相手と自分について知る」という意味では
①よりも②、②よりも③、③よりも④…と、その段階を経るごとに
徐々に色々な視点を使い、以前の段階よりも、より、広く深く
それらの各々について知る事が出来ている。

最終的には、一度の喧嘩につき、仲直りをするたびに
苦しい思いもしたがその分、誰よりも相互理解に近づいている、という利点がある。

「理解したから仲良しになる」という事ではない、という点は
それとこれは「別もの」と認識しきちんと踏まえていただきたい。

たとえ相互理解が深まろうと、その分だけ、より互いの相性の悪さや噛み合わなさが明確に理解できた、という結論だってある。

でも、それはそれで、お互いにとってメリットだ。今後、どうやって接していけばよいのかの距離感や関係の仕方を、誤解なく双方で考えていけるからだ。
つまり「喧嘩⇒仲直り」には、その内容のいかんを問わず「相互理解」のメリットがある。(※繰り返しになるが、「仲良しになる」という意味ではない)

それに対して、
互いに遠慮して言いたい事も言わず、相手に対して本当は言いたい事を我慢している関係は、一見、穏やかで平和でうまくいっている関係に見える。

しかし実際にはそれぞれの本音は違っており、
多くの場合、片方が特により我慢して言いたい事を自分の中に溜め込んでいて、そこに触れぬままコミュニケーションが進み、その間その我慢のために抑え込まれたエネルギーが、行き場のないフラストレーションとなって蓄積していく。

グラスにたまった水の様に、一定量溜まって限界が来たところで、それ以上は溜める事が出来なくなるため、必然的に爆発してしまう。

もう、この時点で、それまでのプロセスにも、ほとんど双方ともに自身の気持ちの開示もなければその情報交換もしていないので、誤解はあってもそれを解く行動は一切起こしていないため「理解」へのアクションがなく、

限界値で一気に爆発した感情はむしろ、一切の理解をするための余裕が皆無な状態だからこその現象であり、「相互理解」どころか、ほぼ完全な「無理解」や「誤解」「勘違い」のまま、それを誰も解くことなく、破綻してしまうのである。

別に「大いに喧嘩をしようじゃないか!」と、喧嘩を推奨するわけではないが、
あまりにも極端に喧嘩や揉め事を恐れるがあまり、自分の意見を押し殺し、意に沿わぬ相手の言い分を、さも同意しているかの様に見せかけて我慢しても、ただその場しのぎで全く無意味などころか、「相互理解」を遠ざけ、すれ違いや我慢によるフラストレーションの限界値によって引き起こされる「唐突な関係の破綻」を招く原因をせっせと拵える事だと、私はそう感じる。

人間関係を大切にしたいと思わないのなら、短期的に「黙って良い顔をして付き合っては、やっぱり違うと限界を感じて壊れる」を繰り返すのもありだろうが、

もし、ほんの少しでも
誰かと、また少しでも多くの人と
もっと深く恒久性ある信頼できる確かな関係性(絆や縁という言い方もある)を築きたいと思うのなら、
目の前の摩擦や衝突を怖がらず、自分の考えや意見はやはりはっきりと相手に伝えるべきであり、
相手の言い分も、すぐに認める必要も納得する必要もないので、
とりあえず、まずは聞くだけ聞いてみて、腹を立ててもいいから、自分の中に一旦取り込む。

自分の中に取り込むと、頭は自然に、冷静になると共に、以前より状況を理解しようとしたり相手の気持ちも慮ろうとし、
とにかく、早く理解してモヤモヤしている課題を解き、頭の中のツマリを解消しようするのではないか、と私はその様に思うのだがどうだろうか。

そしてそれを阻むものは、自意識により「そうすまい」、つまり「理解すまい」「考えまい」という、ストッパーの様に断固拒否をして遮断する意識で、
それが「理解」の弊害になり、最終的には、対象とする相手の拒絶という結論になるのではないだろうか。

衝突や摩擦の刺激を少なくすることは、経験値からなる技術や、また第三者からの適切な助言などにより、徐々に工夫することが可能にはなってくる。

なので毎回ガチンコで感情MAXにしてぶつかる必要はないし、
それでは精神も持たないので
「穏やかに、衝突や摩擦をする」⇒ そして更に、考え方や行動の成熟により転じて、「意見交換をする」という行為に発展させる事の出来るものである、と考える。

「相互理解」に「意見交換」は必須だと思う。

初めから、違うからといって意見を交換しないと関係は積み上がって行かないし、信頼関係も出来ない。

たとえ喧嘩になってしまったとしても、そのリスクを恐れず、意見交換をする。
その勇気を身に付ければ、たとえ喧嘩をしても、それによって結果として得られるメリットは、お金では買えない計り知れないものである。

自分を含めて生身の人間を、一人ひとり、決めつけず「知る」「知っていく」という事は、人生において非常に希少な機会であり、とても大きな価値である。

…私は、本当に心から、そう思う。

なので、何度喧嘩をしても、関係を絶たずに続いている人との縁や絆というものは、何て貴重な存在なのだろうと、つくづく考えさせられ、その都度また学べる、本当に高い価値なのである。

※ここでいう「意見交換」は、相手を言い負かして論破したりマウントの取り合いのようなやりとりは含んでおらず、そういうやりとりは相手の真意を理解したり自分の真意を伝えたりという目的には用いないもの、というのが私の認識なので、あくまで今回は、論破目的でないコミュニケーションを前提とした話です。


まぁ、この論に対する「私は全くそうは思わない」という意見と、その理由も、もちろんしっかりと、ひとりの人間の希少で貴重な意見として、出来る限り詳しく具体的に知りたい。

…なぜかって?

それは単に私が
「他者の真意を知らないのが、一番気持ち悪いから」です✨°˖☆◝(⁰▿⁰)◜☆˖°

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