「エゴ」の迷宮

私は、最近、Twitterの発達障害関連のアカウント(https://twitter.com/nekomama3110)で四六時中、「善悪正誤は人の概念だと思っている」とか、「全てを否定せず認める」考えを支持するような、そんな内容ばかりをつぶやいている。

しかし、私の中でいつも嫌いがちな、支持しない考えに「人のエゴ」というものがある。

エゴというのは、自分と他者がいて、他者に自分の思いや考えなど、価値観を押しつける行為だと私は思っていて、何かを行っている時も「これは私のエゴなんだな」と思うと、それをやめるべきだなと思ったりもするし、よく他人にも、特に子育ての面で「それは親のエゴだ」などと、思ったりもする。

人間だから「好き/嫌い」があるのは当然だと思うし、その感情や感性、感覚というものは「自分という『個』」を大切にするために、決して潰してはいけない大切なものだろうと思っていて、なので「好き/嫌い」の感情に関しては尊重する事を支持する人間だ。

ただ、私の中で「エゴ」に関して述べる時、大抵「それはエゴだ」という時は、「エゴが嫌いだ」という「好き/嫌い」の感情を越えて、「エゴ=間違いである」という批判的な意味を込めて言っているような気がしてならない。

全てを否定せず認める、という観点から行けば、まず「エゴの存在を認める」。
この部分はまだ行けるだろう。
自分のエゴも他人のエゴも「それはエゴである」と認識して、理解できると言うのは大事な事だからだ。
真実に気がつき理解することは、物事の解決の第一歩だと思う。

しかし、「エゴ=いけないものである」「エゴ=悪である」そういう感覚を持っていないか?と自問する。

「エゴが嫌いである」なのか「エゴは悪である」なのか、その認識の違いというのは、自分にとって大きな問題で、もしも「エゴは悪である」という感覚があるならば、それは私の根本的なポリシーから行くと、ポリシーに反する事になる。

ややこしい話はこの辺にしておいて、

人というものは「エゴ」があるものである、と前提したとしよう。
そうする場合、様々な面で「人のエゴ」というものを目にする機会は、非常に多くなるのが当然なはずである。

そうすれば、私が「それはエゴだ」「これもエゴだ」「世の中なぜこんなにエゴばかりなのだ」と苦しむのは、人が人である限り、その中に矛盾やエゴイズムを包括しているのは当たり前という事になるので、「当たり前の事で悩んでいる」「当たり前の事で苦しんでいる」という、事になる。

ここまで来て、また気がついたのだが、やはり私は「エゴが嫌い」なのは確かである。多分アレルギーなほどに嫌いだ。見かけただけで拒否反応を示す為、エゴに対して過剰な反応を示すのだ。

ただ、「エゴ=間違い」「エゴ=悪」ではないのだ。
だから、他人のエゴをことさら否定するのはおかしくて、それこそ私自身のエゴであり、そんな自分自身のエゴすらも認め受け入れる必要すらある。
(まだややこしい…)

ただし、アレルギー的拒否反応があるのだから、自分に対し「人間のエゴを好きになれ」と強いる必要まではない。
…がしかし、「エゴはいかん、エゴはダメだ」という無意識の感情に関しては、今気がついたので、今この時点で、否定ではなく認識で、その考えを前向きに消化していきたいと考える。
(またややこしく聞こえると思うけれど)

つまり、「人にも自分にもエゴがあり、エゴが嫌いでもいいから、エゴを完全否定はしない」ということを、今までよりも少し意識すれば、少しは自分が(自分だけか!)生きやすくなるのではないかという話で。

このブログを使って、自分の「エゴ」というものに対する、心のわだかまりを、絡まった糸をほどくように、解いてみた次第。

チャン、チャン!

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