「発達特性は『障害』か『個性』か?」という問いに対する私の見解

私はTwitterで発達障害当事者としてのアカウントを持っており、同じ当事者の方をフォローしたりフォローされたりしている。

そこで構築された繋がりは、本来クローズではないのでコミュニティとは呼ばないかもしれないが、その繋がりそのものが感覚的に自然とコミュニティ性を持ち、そこは当事者間で「発達界隈」と呼ばれる。

その「発達界隈」では、かなり以前に「発達障害は『障害』なのか?それとも『個性』なのか?」という激しい議論が定期的になされていた。

この様な議論の背景には、
常に自身の抱える凸凹に苦しみ、それにより周囲との折り合いもうまくつかない事で日常の様々な面に支障が出て生きづらさを感じてきた当事者が、その原因が「障害」だったと知る事で、これまでの全てに整合性が取れ納得出来たものであったのに対し、周囲が障害と認めず、「誰にでもある事を言い訳にして甘えている」と否定したり、自身もそう考える事で自責の念に駆られ「弱さや甘えを克服しないと」という精神論の中もがき苦しむ経験や、また「障害などではなく本人の甘え」という認識の社会との間に生じる摩擦、それらがあると私は考えている。

「発達障害は『個性』などではい!『障害』だ!」と主張する心中としては、「障害ではなく個性」と言われると、「単に甘えているだけ」の論を受け入れ、自身の苦しみや生きづらさは「事実」として認められず否定される感覚になる、その側面が大きいのではないかと思う。

対して「発達障害は『障害』ではなく『個性』だ!」と主張する心中としては、「障害」と捉えるとネガティブになってしまい自尊心や自己肯定感を下げ、「障害」という認識の枠の中で自身の可能性を制限して考えてしまう傾向があるのではないかという、自己肯定の為の「前向き思考」を推奨したい気持ちからなるものではないかと考える。

ただ、よくよく考えると、
その議題になっている「障害か個性か?」の問いだが、そもそもなぜ二択になるのか、なぜどちらか一方を採択しもう一方を否定する必要があるのか?
考えれば考えるほど、「障害か個性か」というその問いそのものが、当時もおかしいと感じていたが、更にその根拠を持って、やはりおかしかったと感じている。

「障害であり『個性ではない』」とすると、自分自身が障害の枠の中の存在になってしまい、「自分=障害」の認識は、個としてのアイデンティティを喪失させる。「自己」という認識を喪失しては、そこに自尊心も自己肯定感も生まれる事はなく、「自己」を失った状況では、問題解決の糸口すらも見つけられない。

反対に「個性であり『障害ではない』」とすると、では自身の抱えている何十年も一般の理屈では通らなかったこの根本的な凸凹に対し、一体どう捉えれば本当に解決するのか?現状苦しんでいる当事者の抱える苦しみを考慮する事や「困りごと」に対してはスルーするものになってしまう。


当時も同じことを言った覚えがあるが、私は、あくまで現状として
「『障害』であり『個性』でもある」と主張したい。

障害は、自分の生まれ持った凸凹が、社会の規格や基準に適合しないため、その部分に生じてしまう弊害、つまりは社会の中でのハンディキャップであり、
もしも、知恵と工夫と社会システムによりその弊害である問題点が解決し、当事者自身の感じるハンディキャップやハードルが、「障害ではなく甘えだ」と言える人達と同じ水準まで引き下げられたならば、その時は当事者自身にも「『障害』ではなくなった」と感じられるだろう。

本当にそれがただの「甘え」なのだったら、わざわざそんなに苦しまずとも、かなり以前に必死になって乗り越えられるのだ。
同じやり方では乗り越えられないハンディキャップ、つまり現代社会下における「障害」を抱えているからこそ、いくら周囲が「甘えだ」と言おうが、その考えはただ当事者を追い込む逆効果にしかならず、解決を遠ざける事にしかならない。

ただ、「全ては単なる『障害特性』でしかなく、それを『個性』とは呼ばない」としたらどうだろう?

私自身、発達特性を学ぶにつれて、自身を構成するあらゆる面が、恐ろしいほど全てぴったりと発達特性に当てはまり、自分自身というものを構成しているものは全て「発達特性」とそれに由来する「依存性」であると考えた時、自身が全てそれらで説明がついてしまい、差し引いた後に残る「自分自身」などというものがなくなってしまった。
「『自分=発達特性+依存性』でしかない」と考えてしまった時の虚無感といったら、自分の生きる意欲を完全に削ぐ説得力すらある。

ただ、そこで思ったのは、「障害特性もやはり個性である」という事だ。

自分を構成する要素が特性やそれに由来する依存性であったとしても、それによって形作られているユニークで個性的な(同じ意味だ)自分自身、というものは、唯一無二の存在として、実在しているのである。

そもそも、生物を構成している要素など、厳密に言えばそれぞれ種によって共通している要素があるのが当然であり、その組み合わせや掛け合わせとバランスで違いが出現するのであり、その考えで行くと、発達特性と依存性だけで自分自身が構成されていたとしても、何ら不自然な事はない。


だから結局、「発達障害は『障害』か『個性』か?」などという問いを自分の中に抱くより、
「発達障害は、現状『障害』であり、なおかつそれ自身が自分の愛すべき『個性』でもある」と考えた方が、何かを否定することなく全ての事実を受け入れ、前向きに考える自分の足場を作ってくれるものと、私はそう信じる。

そしていつか、身体・精神に関わらず、未来には「障害」と感じる人がいなくなる社会を夢見て、そちらに向かって進んで行くことが、希望と活力ある社会の様に私には感じられる。

たとえそれが理想論であり、実現不可能に感じられたとしても。

理想とは、実現不可能に思える事であっても、それを信じて胸に抱くところから始まるのだ。

人類は、長い歴史を振り返ってみると、過去「不可能だ」と思われた事でも、実現してきた事がある。
そう考えると、今胸に抱いている理想が、必ずしも本当に実現不可能かどうかなんて、誰にもわかりはしないのだ。

顔を上げた先が真っ暗だと思えば顔を上げたくなくても、前に希望の光があると思えば、顔を上げて前に進もうという気持ちに繋がる。

人には「希望を持ち」「それを信じる」という事は出来るのだ。

いつか「障害」に苦しむ人がいなくなる未来をイメージして、そのビジョンに向かって進みたい、と、私はそう思っている。

たとえ、自分の命がそこまで続かないとしても。


 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして!ADHDの、ADHDによる、ADHDのコミュニティ・サイト「ねこままカフェ」運営およびイベント主催しております、「NPOチームねこまま」代表ADHDのねこままです! コンセプトは「JOIN」=“参加”です! 誰が上でも下でもありません。 みんなが主役、主人公です。 自分のやりたいこと、得意なことに夢中になって取り組む、その事こそが自分達を活かす、ここはそんな場所です。 それぞれの知恵や特性、能力が活きる、活かせる、そんな活動を、みんなで模索しながら、アイデアを出し合いながら、みんなが成長していける、そんな場所になることを目指しています。 当事者会を中心に、当事者一人ひとりの自己実現を目指し、当事者同士の情報交換や啓発し合える場を作っていきます♪